アリスの森

彼が不在の三日間 壱

「朽木隊長、お願いがあるのですが」
 朽木邸の一室を辞そうと障子戸に手をかけた八尋は、背後で座している自隊の隊長を振り返った。
 訝しげな表情をしながらも目で問う朽木に、柔らかな笑みを浮かべる。
 廊下では夜闇に沈丁花の香りが漂っていた。





 望月が中天にかかる頃。
 所用で訪れていた六番隊隊長の屋敷を辞した八尋は、六番隊隊舎への帰り道を急ぐともなしに歩いていた。
 塀の向こうから未だ香る沈丁花を楽しみながら、大通りを避けて静かな夜道を塀沿いに行く、と。
「……こんな時間に何をしてるんだい?」
 月明かりの下、小柄な背に少しの驚きを交えて、そう声をかけた。


 ゆっくりと振り返ったのは、やはりよく知る少女で。
 八尋は常のように穏やかな笑みで少女の側へと進むと、月明かりに浮かぶ桜色の瞳を見上げた。
 そう、見上げたのだ。青年よりもずっと背の低い少女を。
「危ないよ、降りておいで」
 目の前の樹の枝に腰掛ける少女――は一言「――大丈夫だよ」と呟くと、その瞳を夜空へと戻した。
「こんな時間に出歩いたりして、日番谷隊長に怒られるよ」
 自分の言葉に八尋は苦笑した。
 少女とて外見どおりの子どもではないし、十一番隊の第四席だ。滅多なことはなかろうが、それでも過保護な幼馴染の少年はいい顔をしないだろう。
「――大丈夫」
 は先程と同じ言葉を繰り返した。
「残業かい?」
「――出張」
 中央の方まで行ってるのよ。――足を揺らす少女に、八尋は珍しいものでも見るような顔をした。
「ご機嫌だね」
 日番谷が不在であるのに珍しい。
「――今の時期は楽しいから」
 風に運ばれて沈丁花の香りが一層強くなる。
 ああ、と八尋は納得した。
「花の香りだね。沈丁花、水仙、梅……はそろそろ終わりかな。あとは……」
「――杏、馬酔木あせびしきみ辛夷こぶし
 ぱさり、と。の草履が片方落ちた。
「それでこんな時間に散歩かい? もう少し明るいうちにすればいいのに」
 八尋は拾い上げた草履の砂をはたいて、の正面に回る。
 左手を伸ばせば、見下ろす少女はわずかに首を傾げた後、空の左足を八尋へと差し出した。
 の小さな足に草履を履かせていると、
「――そっちこそ」
 言葉少なに外出の理由を問われた。
「今夜は朽木隊長のところに用があったんだよ」
 常より多く語るを見て、他に少女が機嫌を良くする要因を何とはなしに考えていた。





 急に辺りが薄暗くなった。
「ああ、雲が隠してしまったね。せっかくの望月なのに」
 八尋が見上げる視界の端で、の細い人差し指が空を示す。
「――もったいない」
 そう言って。
 くるり、と。の指先が月をなぞる。
 するとそれに合わせたかのように、雲が退いて望月が姿を現した。
 あまりの偶然に八尋が少女を見つめると、月の光を受けて少女がちいさく笑った。
「――珍しい」
 彼がこんな反応をするのは珍しい。
「……キミの方こそ、そんなにはしゃいで珍しいよ」
「――少し、似てるね」
 誰と似ているのか。考えるまでもない。
 少女の機嫌を左右する人物、それはたった一人だ。
「――木に登ってる私を見て言った言葉とか、距離のとり方とか、さっきの反応とか、ね」
 はそう言って、もう一度くるりと指先を躍らせた。
「――初めて話をしたのも、これくらいの時期だったの」
 それからずっと一緒なの。――少年の前でよく見せる笑顔でそう言った少女に、八尋も穏やかに微笑んだ。
「ずっと一緒だったのなら、きっとこれから先も同じくらい一緒にいられると思うよ」
「――そうだと嬉しい」
 控えめに響く愛らしい声を、沈丁花の香りがそっと包み込んだ。


「さて、そろそろ降りておいでよ」
 八尋の呼びかけに、機嫌の良い少女は悪戯な笑みを浮かべた。
 それを見て八尋は苦笑する。
「困った子猫だね。ほら、これをあげるから降りておいで」
 持っていた包みから取り出したものをへと差し出す。
 その香りに誘われるように、身軽な動作で少女は降り立った。
 八尋からの手中に収まったそれは沈丁花だった。
「切り花にはあまり向かないけど、まぁいいだろう」
 あげるよ、ともう一度八尋が言った。
「――いいの?」
「いいよ。もともとキミにあげようと思って、朽木隊長に分けていただいたんだ。十一番隊まで行く手間が省けたよ」
「――ありがとう」
「どういたしまして。ところで……」
 人好きのする笑みをわずかに真剣なものに変えて、八尋は桜色の瞳を見つめた。
「日番谷隊長と僕が似てたって話は、誰にも言っちゃダメだよ」
 特に、日番谷隊長には。
 きょとんとするに、八尋は念を押す。
 理由はわからないが、とりあえずは頷いた。彼が言うのなら、それがよいのだということを経験で知っているから。


 言葉にはされていないが少女の考えていることがわかって、八尋は彼女を溺愛する少年の気苦労を思った。
 未だ、かの少年の気持ちが恋情か庇護欲か家族愛かを判じかねているのだが、忠告ぐらいはしておいた方がいいだろう。


「それから、あんまり他の男を信用しすぎるのもよくないよ」
 首を傾げて八尋を見上げるに、彼は困ったように笑った。