アリスの森

彼が不在の三日間 弐

 ふうっ、と。
 枕元の灯りを吹き消すと、途端に沈丁花の香りが強まった。
 しかしその香りよりも強く自身を包む残り香に安心して。
 少女は静かに目を閉ざした。





「――はい、お茶」
 静かに置かれた湯呑みに綾瀬川が顔をあげると、自分の同僚である少女が盆を胸元に抱えるように立っていた。
「ありがとう、
 にっこり笑って礼を言えば、無表情な少女は視線だけでそれに応えた。
 確認の終わった書類をまとめて少女へ渡すと、白い手が伸ばされる。
 いつ見ても細い手首だな、と綾瀬川は思う。この腕で斬魄刀を振るい、難なく虚を昇華してしまうのだから不思議なものだ。
 書類を受け取ったが踵を返す。その時にふと掠めた香に、綾瀬川は少女を呼び止めた。

 立ち止まってから、がゆっくりと振り返る。
「日番谷隊長は出張中かい?」
「――昨日から中央に行ってる」
「そうなんだ。ちゃんと朝御飯は食べた?」
 ふい、と視線をそらす少女に、綾瀬川は呆れたように続けた。
「日番谷隊長に怒られるよ」
「――みんなして言うのね」
 桜色の瞳を戻して、も呆れたように言った。
「他にも言われたんだ?」
「――昨夜、散歩してたら言われた」
 私、そんなに子どもじゃないよ。――少女の言い分はもっともだった。





 昼の喧騒を少し過ぎた頃、見知った霊圧にが箸を止めた。
 定食屋の入口を見つめる少女に、斑目が「どうした?」と聞く。
 視線を斑目に移しただったが、それには答えず口の中にある煮物を咀嚼している。
 が飲み込んだのと、入口が開くのは同時だった。
「あ、乱菊さん」
 阿散井の声に気付いた松本が、彼らの席へとやってきた。
「なぁに、あんた達も昼? 十一番隊の上位席官が、そろってこんな所にいて大丈夫なの?」
「なんかあっても、勝手にどうにかするだろ」
 適当な斑目の言葉に、松本は「十一番隊らしいんだろうけどね」と笑った。
 かたん、と椅子を鳴らして。
「――松本副隊長、どうぞ」
 十一番隊の第四席である少女が立ち上がって、松本を促す。
 その申し出を辞退した松本だったが、が任務の時間だからとすっかり帰り支度をして店員に器まで下げさせてしまったので、ありがたく座らせてもらうことにした。

 ―――あら?

 とすれ違う時に掠めた香りに覚えがあり、松本は少女を見つめる。
「――それでは失礼します」
 丁寧な礼は松本に向けられたもの。綾瀬川に代金を託すと、十一番隊の三人に一度 視線を寄越して店を出ていってしまった。


 桜色の瞳の少女が店を出て、しばらくしてから。
 店員に注文を済ませた松本が切り出した。
「うちの隊長、昨日から出張中なのよ」
「そうみたいだな」
 斑目が気のない返事をする。
「あの娘、いつもあんな感じなの?」
 曖昧な言葉を使う松本に、綾瀬川が「あんな感じって?」と聞いた。
「あの娘の使ってる香って、もっと柔らかいやつじゃなかった? 今日の感じだと、まるで――」
 松本もよく知る銀髪の少年と同じではないか。
「ああ、日番谷隊長の移り香のこと」
 納得した顔で、綾瀬川が茶をすすった。
「なによ、あんた達。まるで、なんでもないって顔して」
「匂いくらい移るだろ。あんだけ四六時中、一緒にいりゃあな」
「一角、あんた話聞いてたの? 隊長は出張中なの」
「聞いてるっつーの。日番谷隊長がいねーから、匂い移ってんだろ」
 運ばれてきた食事に松本が箸をつけながら、怪訝な顔をした。その顔は「このハゲ、何言ってんだ」と言わんばかりだ。
「ハゲじゃねぇって、言ってんだろ」
「なにも言ってないじゃない」
「まあまあ、一角さんも乱菊さんも落ち着いて下さいよ」
「ふたりとも、店の中で騒がないでよ。まったく美しくない」


「で、いつもあんな感じなわけ? 私が会う時には気付かなかったけど」
 ようやく落ち着いて食事を始めた乱菊に、他の三人は茶のおかわりを貰っている。
「あいつ、日番谷隊長がいない時は日番谷隊長の布団で寝てるんスよ」
 当たり前の顔で、阿散井はそんなことを言ってのける。
 思わず松本は味噌汁を噴き出しそうになった。
「なに、それ」
「安心するらしいですよ」
「なんで、あんたはそんなこと知ってるのよ」
「オレ、一応 霊術院じゃ、あいつの先輩だったんですよ」


「あいつが入学したばっかの頃、がいなくなって雛森や寮監が探す騒ぎがあったんスよ。
どこ探しても見つかんなくて、雛森が日番谷隊長に泣きついて。すぐに日番谷隊長が見つけてきたんですけど。
いなくなった理由が、他人の気配が近くにあると眠れないから、って。
近くっていっても同じ部屋じゃないし、そのうち疲れれば気にならなくなるだろうって寮監は言ったんですよ。まあ、普通はそう思いますよね。
でもホントに眠れないらしくて。本人はけろっとしてるんですけど、日番谷隊長と雛森が心配して――。
それが何の関係があるのか、って? 今説明してるじゃないっスか。
結局、日番谷隊長の上掛けを借りたら、少しだけ安心して寝られるようになった、って」





「だから今でもひとりで寝る時は、日番谷隊長の使ってるもんに包まって寝てること多いらしいですよ」
 阿散井の話を聞いて、松本はぱちり、と箸を机の上に置いた。
 食事はまだ三分の一ほど残っているが。
「……なんだか、お腹いっぱいになった気がするわ」
「なんだかんだ言って、日番谷隊長も大概甘いっスよね」