アリスの森

彼が不在の三日間 参

 透明な液体で満たされた杯に、わずかに欠けた月が映りこむ。
 それに気付いて夜空を見上げると、春の月が威風堂々と姿を見せていた。

 それまで舐めるように味わっていた液体を一気にあおって、は杯をとん、と置いた。





 瀞霊廷の南一条にあるこの料亭に連れ込まれたのは、西の空がまだ橙に染まる前だったから、もう六時間ほど前になるか。
 連れ込んだ当人たちは飲めや歌えの大騒ぎで、宴はまだまだ続きそうである。
「みんな主賓をほったらかしで、困ったものだね」
 ふいに隣からかけられた声に顔をあげると、苦笑した吉良が銚子を差し出していた。
 勧められた酒を「――もうずいぶん頂きましたので」と丁寧に断った少女は、目の前の膳に並べられた空の銚子の数に似合わず、たいして酔った素振りもない。
 代わりにが吉良の杯に酒を満たすと、控えめな笑みで礼を言われた。
「退屈していないかい?」
「――楽しませていただいてます」
 表情を変えずに言われたその言葉に、吉良はふっと笑う。
 笑われた少女は、なにかおかしなことでも言ったかと首を傾げた。
 見つめてくる桜色の瞳に吉良を非難する色はなかったが、やはり不思議なのだろう。吉良の言葉を待っているようだった。
「そんな社交辞令が、君の口から出るようになるなんて」
 それほど親しい付き合いではないが、を真央霊術院に入学した時から知っている吉良としては、この人見知りの強い少女が社交辞令を言ってのけるのは、なんともくすぐったい感じがした。
「――別に、社交辞令のつもりはありません」
「それなら良かった」
 吉良が満足そうに頷くと、少女も微かに口端を緩めた。
「――ところで」
 吉良の杯に酒を注ぎながら、は盛り上がる面々を見やった。
「――まだ帰れそうもありませんね」
「多分 朝まで飲むつもりじゃないかな。疲れただろう? 先に帰っても大丈夫だよ」
「――よろしいですか?」
「構わないよ。それに君を一晩中 酒宴に引っ張りだしてたなんて知れたら、日番谷隊長に怒られてしまいそうだしね」
 冗談めかして言った吉良の言葉に、少女は一瞬きょとんとした後、少しだけ眉を下げた。
 皆、同じようなことを言うのだな、とは心中で笑った。
「――お言葉に甘えさせていただきます」
 最後に吉良の杯に銚子を傾けて、少女は丁寧に辞儀をする。
 の不在に松本が気付いた時には、少女は店の門を出たところだった。





 夜風にのって目の前を過ぎった花弁に、家路へと急いでいた足が止まる。
 この先の川縁には桜並木があったはずだ。最近は暖かい日が続いたから、その薄紅の蕾もだいぶ綻んできているのだろう。
 月の光を辿りながら歩いていくと、案の定そこには黒髪の少女が桜の樹を見上げていた。
 たとえ夜闇であろうと見間違えようもない姿に、ため息をひとつ落として足を速めた。


「こんな時間に何やってるんだ?」
 呆れた声でそう問えば、風になびく黒髪を手で押さえて幼馴染の少女が振り返る。
「お帰りなさい、冬獅郎」
 心底嬉しそうな笑みを向けられれば、日番谷に言えることなどあろうはずがない。
「ああ、ただいま」
 軽い足取りで近付いてきたから酒の匂いがしたので、少年は苦笑した。
「今夜はずいぶんと早くお開きになったんだな」
 日番谷の言葉に、はふるふると首を振った。
「シロが帰ってくると思ったから」
 先に帰ってきたのだと言外に述べられ、まだまだ飲んでいるだろう己の副官に頭痛を覚えた。

 ―――明日……いや、日付が変わってるから今日になるのか。二日酔いで欠勤なんてことにならねーだろうな。

「思ったから……って、帰りは昼頃だって言わなかったか?」
「でも、帰ってくる気がした」
 妙に核心めいて答える少女に、日番谷も何も言わなかった。
 時折吹く風が、薄紅の花弁と一緒に少女の黒髪を遊んでいく。
「遅くなって悪かったな」
 日番谷がちいさく呟けば、夜風に遊ぶ花弁を目で追っていたが少年の瞳をとらえた。
「いつでもいいよ。でも、シロから欲しい言葉があるの」
「ああ」
 こんな月夜でも、桜色の瞳がはっきりと見てとれる。
 少女にも自分の翡翠の瞳は、見えているのだろうか。
 そんなことをぼんやりと考えながら、日番谷はそっと己の双眸を閉じ、そして静かに開いた。





、誕生日おめでとう」


 本当に伝えたい気持ちは別にあるけれど、今はこの言葉だけをお前に捧げよう。





「ありがとう。冬獅郎」
 ほら。そうやって嬉しそうに笑うから、何も言えなくなるのだ。





 春とはいえ、夜風はまだ冷たい。
 いつから此処にいたのかはわからないが、少女が風邪をひく前に帰った方がいいだろう。帰宅を促した少女は頷いたにもかかわらず、歩き出す気配がない。
?」
 名を呼べば、悪戯な笑みを浮かべる少女。
「シロ。手、つないで」
 日番谷は目を丸くした。この少女が自分からこんなことを言い出すのは、とても珍しい。
「仕方ない奴だな」
 呆れた風を装って日番谷が左手を差し伸べると、すぐにの手が重ねられる。
 その手を引いて歩き出すと、尚も上機嫌に少女は続ける。

「帰るまで、ずっとつないでてね」
「ああ」

「朝はちょっと寝坊しようね」
「そうだな」

「起きたら、一緒に桜を見に行こうね」
「わかってる」

「今夜は一緒に寝ようね」
「…………………………それはだめだ」

「なんで?」
「なんで、って。もう子どもじゃないだろ」

「関係ないよ」
「いや、あるだろ」

 とうとう立ち止まってしまった少女に、手を引いていた日番谷の足も止まる。
 泣いてはいないが無言で訴える少女に、困り果てた。
 そして結局、折れるのは少年の方なのだ。

「…………今夜だけだぞ」
「うん」


 機嫌の戻った少女を見て、日番谷少年は深く深くため息を落としたのだった。