アリスの森

あなたに願うたったひとつのこと(前編)

 春の日差しが穏やかな午後に、舞い降りた偶然。
 仕事中にもかかわらず、幼馴染の少年とこんな風にゆっくりと過ごせるのは稀なこと。
 途中までは本当に、穏やかな午後、だったのに。





「冬獅郎は、桃の花が一番好きだものね」

 子どもの頃から、彼が姉のことを大切にしているのは知っていた。
 自分が蔑ろにされていると思ったことはないけれど、憧れと愛しさを宿して姉を見つめる翡翠の瞳が面白くなかったのも偽らざる想いだ。
 それでも、いつだって自分を優先してくれていたから、それでもいいと思っていた。たとえ妹のような存在であっても。
 それなのに。


「一番好きなのは、桜の花だよ」


 その一言に、拗ねていたのも忘れて目を瞠った。
 彼が好きだと言った黒髪が視界に映る。
 何故、結い上げていた髪が下ろされているのだろう。
 何故、その髪に接吻けが落とされているのだろう。
 何故――彼はそんなことを言ったのだろう。


う そ つ き


 一瞬の混乱の後、人形のように整った面を不機嫌な色に染めて呟いた言葉。
 思えば、雛森 がこんな風に彼を責めるのは初めてだった。
 ばつの悪い思いから、少女はきゅっと眉根を寄せる。
 その言葉が声にならなかったことだけに安堵していた。





「嘘じゃない」
 日番谷 冬獅郎は翡翠の瞳をそらさずに言った。
 思いのほか強い口調になったことに舌打ちしたい気持ちもあったが、構ってなどいられない。
 すぐに受け入れられるなんて自惚れていたわけではなかった。自分が一番懐かれている自負はあるが、所詮 兄くらいにしか見られていなかっただろうから。
 だから少女の唇が紡いだ言葉は、音にならずともすぐに理解できた。
「嘘じゃない」
 日番谷はもう一度繰り返した。
「本当だ。本当に一番す……」
 日番谷の言葉を、白い手が塞ぐ。
 眦をきつくした幼馴染の少女の唇が、先程と同じように音もなく呟くのがわかる。
 日番谷がその手に触れると、少女の体が震えた。

 俯いてしまった少女の名を呼ぶ。

 いやいや、と首を振る少女。幼馴染の少女にこんなにも拒絶されたのは初めてだ。
「なあ……どうしたら信じてくれるんだ?」
 日番谷は、掴んだ手を祈るように握り締めた。





「そんなの、いらない」
 こんなことを言って、日番谷がどんな表情をしているのか。怖くては顔を上げられなかった。
 掴まれている手に力が込められて、さらに不安が募る。

 ―――どうしよう。怖いよ。

 それでも、彼の言葉をいつものように素直に受け入れることなどできなかった。
 その時。
 ふうわり、とのもとへ甘い香りが運ばれてきた。
 足元では風に揺れる花影が映る。
 藤の花の芳香を含んだ春の風が、少女の髪を優しく揺らしていた。

 その香りに気を取られていた少女の名を、三度みたび 日番谷が呼ぶ。
 はきつく瞳を閉じた。そして一度だけ、静かに呼吸をする。
「…………だったら」
 少しだけ……の思考がはっきりしてきた。まだ冷静とは言い難いけれど。
「見つけてきて」
 握られたままの自分の両の手をそっと解くと、日番谷の戸惑う気配を感じた。
 日番谷の胸元を押すことで互いの間に距離を作ると、はようやく顔を上げることができた。
「見つけてきて」
 繰り返される言葉に日番谷は「なにを?」と問うが、少女は同じ言葉を繰り返すだけ。
「見つけられたら、俺の言葉を信じてくれるんだな」
「……この藤の花が散るまでだよ」





「隊長、お帰りなさい。早かったですね……って、どうかしましたか?」
 日番谷が執務室の扉を開けた途端、松本 乱菊が目を丸くしてそう尋ねた。
「別に、どうもしない」
 不機嫌に答える自隊の隊長に松本は不思議そうな表情を浮かべ、深く踏み込もうかどうしようかと思案していた。
 一時間ほど前に別れた時の機嫌が嘘のようで、その原因であろう十一番隊の少女を思い浮かべる。
 あの少女が日番谷の機嫌を損ねるとは考え難い。
はどうしたんですか?」
「十一番隊に戻った」
 他の者なら気付かない程度に日番谷の眉間の皺が増える。
 その様子を見て、松本は踏み込むことに決めて問いかけた。
 彼が私情を交えるのは珍しく、それがの少女に纏わることならば、余計なお世話だと言われても松本は首を突っ込むつもりだった。
とケンカするなんて珍しいですね」
「別に……ケンカなんかじゃない」
 とりあえず鎌をかけてみたが、見事に流された。
 しかし全くの脈なしというわけではなさそうだ。書類を前にしつつ、硯も筆も出さないとは彼らしくもない。
 松本は一度 茶を淹れに席を立ち、戻ってくると日番谷の机に茶菓子と湯呑みをふたつ置いた。


「それにしても、藤の花 綺麗でしたね」
「そうだな」
「ところで隊長は、直球と変化球どっちがいいですか?」
「なんの話だ」
の話ですよ」
 はぁ、と日番谷が盛大なため息をつく。後ろに寄りかかったことで、彼の椅子がちいさく鳴った。
「お前は気が利きすぎる」
「誉め言葉として受け取っておきます」
「誉め言葉だ」
 自隊の隊長にそう言ってもらえるのなら、副隊長としてこんなに嬉しいことはない。
「だからといって、この話を流すつもりはありませんよ」
 松本の紅い唇が綺麗な弧を描く。
 日番谷は苦りきった表情で応えると、湯呑みを手元へと引き寄せた。
 流すもなにも、何を話せばよいのか。だいたい聞いたところで面白い話でもあるまい。いや、酒の肴になるか。
 否とも応ともできずに、日番谷は湯呑みに口をつけた。
「で? と何があったんですか?」
「………………」
「ねえ、隊長」
「……何かを見つけてこなくちゃいけなくなった」
「何かってなんですか?」
「それがわかれば苦労しねぇよ」
 それもそうですよね、と言いながら、松本は茶菓子を手に取った。
「宝探しですか?」
「どうだろうな」
 吉とでるか凶とでるか、まだわからない。あの時 少女と約束したのは、「日番谷の言葉を信じる」ということだけだ。
「どんな経緯でそんなことになったんですか?」
「………………」
「事態の背景がはっきりしていなくては、正しい状況分析はできませんよ」
「俺の言葉だな」
「はい。真似てみました」
「本当にお前は優秀だな」
 そのサボリ癖さえなければな、とごちる日番谷に松本は、適度な休憩が脳を活性化させるんです、と嘯いてみせる。
 大きく息をつくと、日番谷は「椅子持ってこい」と指示をして湯呑みを傾けた。





「……あいつに好きだと言った」
「へぇー」
 日番谷が幼馴染の少女を過保護にしているのは、松本もよく知っている。そして、件の少女も日番谷にとても懐いていて、姉である雛森 桃をさしおいて「日番谷が一番好き」だと公言している。
 だから松本にとって、今更、なことだった。
「そうしたら『うそつき』と言われた」
「へぇー、……って、隊長、今なんて言いました?」
「だからに『うそつき』と言われた」
「なんで!?」
 ばん、と机に両手をついた松本に、俺の方が聞きたい、と日番谷は苦い顔で呟いた。
 その顔は年相応の少年のものだ。
「だってあの娘、日頃から隊長のことが好きだって言ってるじゃないですか」
「それは『好き』の種類が違うからだろ。あいつのは兄妹みたいな感情だ」
 自分の言葉に苛立ちを感じた。
 その苛立ちと一緒に茶を飲み干した日番谷が、机に湯呑みを置く。常の松本ならそれに気付いて新しい茶を淹れ直すのだが、今回ばかりはそれに気も回らず、ぽかんとした顔で目の前の少年を見つめた。
「それって隊長の『好き』は、兄妹の類じゃないって言ってるように聞こえますが」
「だから、そう言ってるだろ」
「えっ、えっ、それってつまり、に告白した、ってことですよね」
 松本の反応にばつが悪くなった日番谷が自ら茶を淹れに立ち上がると、その後ろを松本が慌ててついてくる。
 一足先に急須に湯を入れた日番谷が、「そんなに意外か?」と不貞腐れたように尋ねた。
「ひょっとして、って思うことはありましたけど、やっぱり意外です」
「そうか」
「あの娘も急だったから驚いて、そんなこと言ったんじゃないですか?」

 ―――そうだろうか。いや、違うだろう。あの拒絶はそんなに簡単なものじゃない。

 眉根を寄せた日番谷の様子に、松本はの少女を思い浮かべた。
 あの少女がどんな風にその言葉を言ったのかわからないが、この様子ではずいぶんと泥沼だったのだろう。
「それで、どうして探し物の話になったんですか?」
 日番谷のらしくない姿に、松本も冷静さを取り戻した。
「見つけてきたら俺の言葉を信じるって約束したんだ」
「何を見つければいいのかもわからないのに?」
「ああ」


 それっきり窓の外へと視線を向け、黙ってしまった日番谷。
 その銀色の髪を、春の風が優しく揺らしていた。

(『揺らめく恋と10の言葉たち』 Title by 恋花)