あなたに願うたったひとつのこと(中編)
薄曇りの空の下。
あなたは何を思っていますか。
カラン。
硬いもの同士のぶつかる軽い音が十一番隊の執務室に響いた。
その音に綾瀬川 弓親は書き途中の書類から顔を上げて、音のした方を見やった。
視線の先には黒髪の少女。結い上げられた長い髪に鈴のついたかんざしを挿して、少女の特徴とも言うべき桜色の瞳は手元の書類へと向けられている。今はその色を窺い知ることはできないが、そうしていると人形染みた印象がさらに強まる。
その少女が白い指先で飴玉をひとつ摘み上げた。
ころり、と口に放り込まれたのは黄色い飴玉。
四半刻ほど前にも薄桃色の飴玉。さらにその前には黄緑色の飴玉で、さらに前には赤い飴玉。
この午前中だけでも、かなりの数の飴玉を舐めている。
そういえば、お茶を飲む回数も多い気がする。
涼しい顔で書類を片付ける十一番隊 第四席の少女に、綾瀬川が筆を置いて問いかけた。
「」
名を呼ばれた少女は動かしていた筆で何事かを書き上げてから、ゆっくりと視線を上げた。
「もしかして、のどが痛いのかい?」
「――別に」
少女――雛森 は簡潔に返す。
たとえ体調が悪かろうとも素直にそれを言う少女ではないことは承知しているので、綾瀬川は席を離れてに近付いた。
「熱は?」
綾瀬川が額に触れようと手を伸ばす。
それを頭をゆるく振ることで避けた少女が、仕返しとばかりに書類を綾瀬川に押し付ける。
じっと見つめる人形のような瞳に、先に白旗を上げたのは綾瀬川の方だった。少女の表情には出ないが、構われたくないのだろう。
深いため息とともにから書類を受け取ると、机の片隅に置かれている可愛らしい瓶を傾ける。
先程と同じようにカランと鳴ったその瓶は、先日 やちるに菓子を強請られた斑目が一緒に買ってきた飴玉だった。
「に何かあると、僕達が日番谷隊長に怒られるんだけどね」
困ったような綾瀬川の言葉に、がそっと視線を逃がす。
「――知らない」
常よりもずっと平坦な少女の声。
問うことは容易いが、少女からの返答は望めないだろう。気心の知れた仲間ではあると思うが、こういう時に感じるとの隔たりは大きい。
窓の外を見つめるの視線を追えば、庭に植えられた藤の花が風に揺れていた。
「あら、はいないの?」
書類を片手に十一番隊を訪れた松本 乱菊に、部屋にいた綾瀬川と阿散井は意外そうな表情をした。
「乱菊さんが来るなんて珍しいね」
書類を受け取りながら綾瀬川が言うと、松本は「隊長が動けないから仕方ないのよ」とこぼして勝手にソファへと腰を下ろした。
「日番谷隊長、忙しいんですか?」
松本の前に茶を出した阿散井が尋ねる。
「隊長が忙しいのなんて、いつものことよ。それもあるけど……」
松本はキョロキョロと辺りを窺い、「ねぇ、あの娘は?」と聞き返した。
それに対して、十一番隊の二人は顔を見合わせる。
「なら現世任務ですよ」
答えたのは阿散井だった。綾瀬川は受け取った書類をぺらりと捲っている。
ざっと目を通した内容に十一番隊の隊長印が必要だと判断した綾瀬川は、書類を脇に避けて松本を見た。
「何かあった?」
「あの娘から何か聞いてる?」
問いに問いで返す松本に気分を害すこともなく、綾瀬川が横に首を振ることで答える。
昨日のの様子を思い起こせば、日番谷と何がしかのことがあったのだろうと察しはつく。しかし、それを追究することは綾瀬川にはできなかった。
本来、人見知りのあるにとって、友人と呼べる存在は極端に少ない。
更木をはじめとする十一番隊の上位席官とは古い付き合いだから、も気を許しているのは事実だった。親友というより悪友なのだが、綾瀬川と斑目にとっては妹のような存在でもあったので、何彼となく世話を焼き、に煙たがられるのも常のことだった。
それでも巧くいっていたのは、互いの引く境界線を見誤らないでいるからである。
今回はそれを越えるかもしれない、と綾瀬川は思ったのだ。
「なによ、あんた達って冷めた関係ね。その程度の間柄なの?」
微かに眉根を寄せた松本に、綾瀬川はふっと笑った。
「『その程度』じゃないから追究しないんだよ。赤裸々に話すばかりが全てではないからね」
綾瀬川の言い分もわかる。わかるのだが。
「気にならないの? 隊長とのことなのよ」
気にならないといえば嘘になるが、追究したところでは絶対に口を割らない。
「乱菊さんは随分と詳しいみたいだね」
に踏み込むことはできないが、第三者から事情を聞くのは、綾瀬川の美学に反しない。
にっこりと笑った綾瀬川に、松本は、そうこなくっちゃ、と同じように笑みを返した。
―――結局、首突っ込むんだ。弓親さんもには甘いよな。
一方、成り行きを見守っていた阿散井はそんなことを考えていた。
薄曇りの空を控えめに彩る藤の花を見上げて、十番隊隊長・日番谷 冬獅郎は全てを吐き出すように大きく息をついた。
その翡翠に藤の花を映して、先程の松本の言葉を反芻する。
「の言う『見つけてほしいもの』って、藤に纏わるものなんじゃないですか?」
最近のの様子を探ってきた松本によると、彼の幼馴染は物憂げに藤を見ている姿が多いらしい。
それを心配する他の隊士が、声をかけることも しばしばだとか。
「隊長、急がないと『鳶に油揚げ』ですよ」
力説する自隊の副隊長に渋面を作った日番谷だったが、あの人見知りの強い少女がそう簡単にさらわれるとは思っていない。
もしをさらうような男がいるのなら――
「こんにちは、日番谷隊長」
ひときわ大きな藤木の陰から姿を現した青年が、人好きのする笑顔で挨拶をした。
八尋――この男だけだろう。
思わず眉根を寄せた日番谷に、居心地の悪さも不快感も見せず、八尋は穏やかな雰囲気で藤を楽しんでいる。
日番谷はこの青年が苦手であった。態度も柔らかく誠実そうな人柄は好感が持てるのだが、どうにも苦手意識が強い。その理由にも気付いていた。
人見知りの強い幼馴染の少女にとって、おそらく親しい部類に入る数少ない存在だからだ。
そんな日番谷の思惑に気付いているのか、八尋は相変わらずの笑みで視線を日番谷へと向けた。
「藤がどうかされましたか?」
「何のことだ」
問われた理由がわからず、日番谷は聞き返した。無意識に声が低くなった気がする。
「随分と熱心に見ていらしたので。花見を楽しんでいる様子ではなさそうでした」
黙ったままの日番谷に、八尋は「そういえば」と続ける。
「昨日は十一番隊の雛森四席が、同じようにしていらっしゃいましたよ」
「……なにか話したか?」
「いえ、特には。構われるのが好きではない方ですから」
そうか、と日番谷は呟いた。
「ところで、松本副隊長の探し物は見つかりましたか?」
「松本の探し物?」
「はい。なにかを探していると伺ったので」
「……まだ見つかってはいない」
「そうですか。早く見つかるといいですね」
穏やかな笑みに居心地が悪くなった日番谷は、「伝えておく」と述べて踵を返した。
その背に八尋の声がかけられる。
「日番谷隊長、探し物が『物』とは限りませんよ」
思わず振り返った日番谷に、八尋は話は終わったとばかりに礼を返した。
―――探し物が『物』とは限らない、か。
全てを見透かすようなあの態度も彼を苦手と感じる要因だ、と日番谷は頭の片隅で思った。
(『揺らめく恋と10の言葉たち』 Title by 恋花)