アリスの森

さざなみの海で、真珠の呟き(前編)

「日番谷隊長のご不興を買ってしまったかな?」

 隣を歩く青年の言葉に、は桜色の瞳を瞬いて彼を見上げた。
 疑問系ではあるが、日番谷が不機嫌だったことは彼も充分に承知しているはず。
 それはとて同じこと。――不機嫌の理由まではわからなかったのだけれど。





「隊長、いい加減 霊圧下げてくださいよ」
 日番谷の執務机に静かに湯呑みを置くと、松本 乱菊がそう進言した。
 つい先程まで此処――十番隊執務室には、日番谷の幼馴染である雛森 が書類を届けに来ていた。
 それだけなら日番谷の眉間の皺がここまで深くなることはない。今日訪れた桜色の瞳の少女の隣には、六番隊の青年の姿があったのだ。
 いつにも増して不機嫌そうな表情の日番谷が、黙したまま湯呑みへと口をつける。
 松本が淹れた熱めの茶を一口飲んでから、日番谷は控えめに ため息をついた。
 松本の言うとおり、職務中に私情を交えるのはいただけない。頭ではそうわかっているのだが、どうにも自分の感情を制御できずに また ため息をついた。
「いっそのこと、『俺の女に手を出すな』とか言ってみたらどうですか?」
 日番谷の霊圧が少し和らいだことで、松本は安堵しそんな軽口を叩く。
 一方の日番谷は、眉間に刻まれた皺を維持したまま、その言葉を聞き咎めた。
「別に俺のものじゃないだろ」
 は、だ。俺のものとか、誰のものとかではない――はずだ。
「うーん……まぁ、人道的観点から言えばそうなんでしょうけど。そういう意味じゃなくてですね――」
「松本、お前の言いたいことはわかってる」
「あ、そうですか」
 いつの間にか、松本は自分の椅子を持ってきて日番谷の対面に腰掛けている。どうやら、午後の仕事をする気はないようだ。
 そんな松本の様子と この話題を引き伸ばしてしまった自分の迂闊さに、日番谷は深いため息を吐き出した。
 諦めて自分の手元にある書類に隊長印を捺していると、松本が「でしたら、」と続ける。
「恋人としての主張くらい許されるんじゃないですか?」
「……他人の込み入った話なんかに首突っ込んで面白いか?」
 呆れ半分、皮肉半分でそう言ってみても この副官に効果がないことは知っていたが、案の定「面白いです」と即答された。
「まぁ、それだけが理由じゃないんですけどね。前にも言ったはずですよ、『あの娘に興味がある』って」
 確かに、何度か聞いたことがある。人見知りのあるの人間関係が広がればと思って松本に引き合わせたのだが、まさかこんなことまで詮索されるとは考えてもみなかった。
「お前に知られたのは失敗だった」
「酷いですね。悩んでいる隊長のために、こーんなに献身的に尽くしている副官に対して」
「ものは言いようだな」
 本日四度目となる ため息が日番谷から漏れる。なんだか、悩みの内容がすり替わってしまいそうだ。
「だいたい、そう言ったところで事態は変わらん」

 ―――あいつは、俺たちのことを知っているんだから。

 先程見たばかりの、穏やかな笑みを浮かべた六番隊の青年を思い出す。
 あの一件以来、と八尋が一緒にいるところを見てはいない。しかし、二人が会っていなかったかどうかまでは、日番谷には知りえないことだった。
 未だ八尋の真意はわからぬままなのだ。


 松本が湯呑みに茶を足しながら、「でも、」と切り出した。
「珍しいですね。隊長があからさまに そういう態度をとるなんて」
 この言葉は些か日番谷の居心地を悪くさせた。今更ながら、部下の前で私情を交えたのはよくなかったと思う。それも、こんな色恋沙汰で。
 一方、松本は思い出していた。ずいぶんと前にも同じようなことがあった、と。
 今日ほどあからさまではないにしても、日番谷は眉間の皺を常より深くしていた。確かあの時も八尋だった。
「八尋と隊長って、霊術院時代の同期なんですよね?」
「……ああ」
「ってことは、とも同期なんですね」
「…………ああ」
 日番谷の表情が見る間に苦味を帯びていく。
「あの二人、仲良かったんですか?」
「…………」
「…………」
「……知らん」
「隊長~」
 松本の焦れたような呼びかけを聞き流しながら、日番谷は湯呑みを傾ける。
 この副官は はぐらかしたと思っているのかもしれないが、本当に知らないのだ。


 そもそも、日番谷にしろにしろ、霊術院に親しい者など あまりいないのが現実だった。
 歳若い見た目や 周囲の者と雰囲気を異にする外見は、他人を寄せ付けず。
 そう見られることに日番谷自身、辟易していたし、人見知りの強いは、好んで他人と交わろうとはしなかった。
 特進学級の中でも突出したその実力も、遠巻きに見られる一因であったのだろう。
 そんな中で、が日番谷以外と親しくしているところなど見たことはなく、今日に至るまで、の口から八尋の話が出たことなど一度もなかったと記憶している。
 ならば何故、と八尋が知り合いだと知っていたのかといえば、霊術院での実技演習で二人が組んでいるのをたまさか見たことがあったから。それだけ。


 だから、本当に知らないのだ。





「――珍しいね」
 向かいの席で黙々と白玉あんみつを食べていた少女が、前触れもなく そう呟いた。
「なにが?」
 彼女が急に思いついたように話をするのは いつものことなので、何でもないように先を促すと、はひとすくい小豆を口に運んだ後、手元のあんみつから顔をあげた。
 八尋の斜め上あたりに視線を彷徨わせているに、八尋は「アイスが溶けるよ」と声をかけて自分の心太ところてんを箸でつまむ。
 言葉を選んで視線を彷徨わせる、これは彼女の癖だ。
 八尋は最後の一本と一緒に三杯酢を飲み干してから、「日番谷隊長に怒られてしまうだろうね」と常と変わらない穏やかさで言った。
 はというと、溶け始めたバニラアイスを口に運びながら、ことり、と首を傾げる。
「――なにが?」
 先程の八尋と同じ言葉で返す。
「僕がキミと一緒にいることを知ったら、日番谷隊長はいい気がしないと思うよ」
「――そう、かな?」
「キミだって日番谷隊長がお姉さんと一緒にいたら、あまりいい気がしないだろう?」
「――……」
 きっちり三分かけて考えた後、ようやくは口を開いた。
「――桃ちゃんは……仕方ないもの」
「相変わらずだな。少しくらい わがままを言ったって、罰は当たらないと思うけど」
「――言ってる」
「そうかな。僕から見れば全然足りないよ。キミも、日番谷隊長も、ね」
 独占欲の強いの少年は、自分の想いを押し付けることで少女の世界を狭めてしまうことを、極端に忌避しているように見受けられる。
 そして、盲目的に彼を慕う此の少女は、基本的に見返りを求めないから、少年の独占欲には気付かない。
「――冬獅郎、も……?」
「日番谷隊長も。ほら、早く食べちゃいなよ」
 こつこつ、と八尋の指先が机を鳴らす。
 器にはまだ寒天が残っている。ひと匙ですくいきれなかった寒天が器の中でちいさくはねた。


「――さっきの」
 相変わらず食べるのが遅いな、とを眺めていると、最後の一口を嚥下した少女が、桜色の瞳で見上げてきた。どうやら、最初の話題に戻ったようだ。
 それにしても、今日はよく話す。平時の彼女なら此方の問い掛けに一言二言 返す程度なのに。
「――八尋は」
「うん?」
「――冬獅郎に知られたく、」
 ないのかと思ってた。――少し間を空けて続いた言葉。
 間が開いた理由は言いにくかったからではないというのは、八尋も承知している。言葉足らずで話すのは、少女の悪癖であったから。





 それこそ、初めの頃は頷くか首を振るかの反応だけだったので、相手の言葉や感情を汲み取るのが得手だった八尋でも、の相手には手を焼いた。
 これで一緒に実技演習を行うのは骨が折れるだろうな、と思っていたのだが、予想に反して、必要に迫られれば少女はちゃんと話しをするのだ。
 その時に思ったのは、あの銀髪の少年が先回りをして甘やかすから、この少女が喋らなくなるのだな、という事実。
 そのうち、の相手に慣れてくると八尋も彼女の言いたいことの察しがつくようになり、で言わなくても伝わることに甘えて会話らしい会話をしなくなった。

 日番谷と同じ徹を踏んだことに八尋が気付いたのは、護廷十三隊に入隊してしばらく経ってからのこと。

 少女と親しいというだけで睨まれそうな勢いなのに、こんなことを知られたら面倒なことになりそうだ。そう思っていた。





「日番谷隊長に誤解されても困るしね」
「――なのに、」
 今日は十番隊へ書類を届けに行ったら、図らずもと出くわしてしまったのだ。それで一緒に隊首室まで行って、見事に日番谷の不興を買ってしまった。
「たまには引っ掻き回してみようと思って」
「――? それって楽しい?」
「うまくいけば、ね」
 ふぅん。――よくわからない、といった様子では湯呑みを傾けた。
 日番谷に妬心があるなどとは、微塵も思わないのだろう。
「日番谷隊長はキミのことが好きなんだから、自分以外の男が近付くのは面白くないと思うよ」
「――そんなことで怒るほど、私のこと気にしてないと思う、けど」
 この言葉には、さすがの八尋も日番谷への同情を隠せなかった。
 あれほどの告白劇を繰り広げておいて、この無自覚さ。
「そんなことで怒るほど、日番谷隊長はキミのことが好きなんだよ」
 現に今日はご機嫌を損ねてしまっただろう?
「――あれは、そういう理由?」

 もし そうだとしたら、それは少し嬉しいことかもしれない。――ささやかに語る少女に、八尋はやはり穏やかに「すぐにわかるよ」と笑った。