眠り姫への優しい言ノ葉
月のない闇夜を仰ぐ少女。
その背に、少年は静かに告げた。
「お前、もしかして眠れないのか?」
あの望月の夜から、日番谷 冬獅郎は雛森 に声をかけるようになった。
相変わらず遊びの輪には入らないが、話しかけられれば言葉少なに返す様子が嬉しかった。
それを見た他の子ども達はたいそう驚いた。今までの声を聞いたことは数える程で、近付くことすらできなかったのだから。
少女の姉は明るく親しみやすいが、この少女は整った顔立ちと口数の少なさから近付き難い雰囲気なのだ。
そして少女自身も他人との関わりを苦手としていたので、皆、遠巻きに見るだけだった。
そして日番谷の最近の気に入りの時間は夜であった。
皆が寝静まった頃、たまに庭先を覗くと、かの少女がいるのだ。日番谷を魅了する桜色の瞳に夜空を映して。
「」
自分の呼ぶ声に一呼吸おいてから振り返るのが少女の常だった。の癖なのだろうと日番谷は思っている。
「――…………」
は一度何かを言いかけ逡循した後、結局口を閉ざした。
「?……」
がこのような様子をたまに見せるので、日番谷は気になっていた。
そして唐突に気付く。
「、俺の名前知ってるか?」
あの望月の夜から大分経つが、少女に名を呼ばれた記憶がないのだ。
日番谷の言葉には微かに目を見張り、すぐにこくりと頷いた。
「じゃあ……」
少女に一歩近付く。日番谷を見つめる桜色の瞳に、自分の姿が映っている。それがわかるほど側に立ってもが逃げないことに、改めて頬を弛めた。
「呼んでみろよ」
「――ひつがや……とうしろう……」
「もっと大きな声で」
「――とうしろう」
「」
少女の声が自分の名を呼ぶ。それだけで心が暖かくなる。
「――なんで……わかったの?」
「お前が俺の名前を呼ぼうとしてることか?」
少女が頷いた。
「一度も呼ばれてないって気付いたから。名前知ってるのにどうして呼ばなかったんだ?」
「――なんて呼んでいいか わからなかったから」
「別に普通に呼べばいいだろ」
「――だって……違ったから……」
「なにが?」
「――…………」
「?」
「――『シロちゃん』って呼んでた」
少年が苦い顔をした。その呼び方は――
「桃か」
三度目の頷き。口の足りない少女が頷くことで是を示す。日番谷にとって新たな発見だ。
そして、もうひとつの発見――。
「……ひょっとして桃のことも、なんて呼んでいいか わからないのか?」
のばつの悪そうな顔に、日番谷は笑った。
「昔……現世ではどう呼んでたんだ?」
「――……覚えてない」
が現世を去ったのは、物心つくかつかないかという頃だ。尸魂界で生きてきた時間の方が長い。
「――だから……お姉さんだって言われても よくわからないし、どうすればいいのかも わからない」
だって、ずっとひとりだったんだもの。
そうはっきりと告げる瞳に拒絶の色はない。ただ事実を告げただけ。
「……今は?」
少年の小さな問いかけに、首を傾げる。
「今も、ひとりか?」
「?……今は冬獅郎達がいるよ?」
当たり前のように存在を肯定される。
日番谷の目には、家族にも村の誰にも無関心なように見えていた少女だから、こんなにも呆気なく返されるとは思わなかった。
黙ってしまった少年に、は自分の返答がまずかったかと不安な表情をした。
尸魂界にやってきてこの潤林安を訪れるまで、他人と一緒に過ごしたのはほんのわずか。最初に送られた地区が地区なだけに、人と落ち着いて会話をする経験が少なかったので苦手なのだ。
不安そうな少女を安心させたくて、気付いた日番谷は手を伸ばした。逃げられるかとも思ったが、少女は一瞬首をすくめただけだった。
怖がらせないように、そっと頭をなでる。この家の老婆がしてくれるように――。
「桃のことも呼んでやれよ。あいつ、絶対喜ぶから」
珍しく満面の笑みを浮かべる少年に、少女もぎこちなく笑みを返した。
翌朝早く、まだ布団の住人である日番谷のもとにひとりの少女が駆け込んできた。とても興奮した声で、寝ている日番谷を強引に揺すり起こす。
「ねぇ、シロちゃん起きて! シロちゃんってば」
「ぅ~~、なんだよ朝っぱらから」
「あのね、すごいのよ。もう、どうしよう、あたし」
まだ寝惚け眼の日番谷に、桃は全く要領を得ない言葉を繰り返す。
「だから、なんだってんだよ」
昨夜も遅くまでと過ごしていたので、まだまだ寝たりないのだ。
「あのね、ちゃんが初めてあたしのことを呼んでくれたの!」
「……なんて?」
呼んだことよりも、そちらの方が気になる。
「『……おはよう……桃ちゃん』って。あたし、びっくりしちゃって」
「へー、よかったな」
桃の嬉しそうな顔を見て、日番谷も嬉しくなった。次の言葉を聞くまでは……。
「最近はシロちゃんとばっかり仲良くしてたけど、やっぱりちゃんはあたしの妹だもの」
少年は些かムッとして言い返した。
「俺だって名前呼ばれたことくらいある」
「うそ!?」
「嘘じゃねぇ」
「なんでシロちゃんばっかり仲良くなるの。ズルイ」
「ズルイったってなー。だいたい朝っぱらから騒ぐな。夕べは遅かったから眠いんだよ」
日番谷が布団の中に戻ると、年上の少女はその生活態度をいさめた。
「そういえば最近、寝ぼすけだよね。駄目よ、少しはちゃんを見習って早寝早起きしなきゃ」
「何言ってんだよ。だって……」
言葉の途中で勢いよく起き上がった日番谷に、桃が目を丸くする。
「、もう起きてるのか?」
「え……う、うん」
「最近ずっとか?」
「ちゃんは家にきてからずっと早起きよ。シロちゃんだって知ってるでしょ」
朝食の支度を手伝うからと桃が戻った後、日番谷は思い返していた。
と初めて言葉を交した望月の夜。あの夜も思ったではないか。
結局、昼近くまで寝ていて一日ごろごろと過ごしていた日番谷は、皆が寝静まった頃にいつもどおり庭へ出た。件の少女は庭にある木を見上げていた。
「」
いつものように、少女がゆっくりと振り返る。
「なに見てるんだ?」
「――木……?」
「いや、それはそうだけど――そうじゃなくて」
木など見て、なにが楽しいのか。少年には疑問だらけだ。
「それっておもしろいか?」
「――高いと……見え方が違う……」
「あぁ、木に登ろうとしてたのか」
初めてこの庭で見掛けた夜も、この少女は木に登っていた。その後も幾度かあったが、大人しそうな外見からは想像しがたいことだ。
常々どのように登るのか気になっていたが、今夜はその様子が見られると、日番谷はなんとはなしに思っていた。
しかし少女の気が削がれたのか木には登らず、風に揺れる枝葉を見つめている。
地上の二人にはあまり感じられないが、空に近いところではずいぶんと風が強いようだ。ざわざわと揺れる枝葉の向こうでは、夜空より僅かに白っぽい色をした雲が風に流されている。
月の光も星の明かりも雲に遮られた夜空を見上げている少女を、日番谷は縁側に腰掛けて見つめた。は熱心に雲の流れを見ている。
どれくらい、そうしていただろう。
月のない闇夜を見上げている少女の背に、少年は静かに声をかけた。
「お前、もしかして眠れないのか?」
少女がゆっくりと振り返る。常と同じ、一呼吸おいてから。
常と違っていたのは、驚いたような桜色の瞳。
「……やっぱりか……」
少年は苦虫を噛み潰したような顔をした。
この家にきた翌日から、毎朝の水汲みはの仕事になっている。陽が上る前に起き出す少女は、その仕事を欠かしたことがない。例え少年と一緒に夜更かしした翌朝でも、だ。
「眠れないからこうやって夜更かししてるのか?」
「…………」
「沈黙は肯定とみなすぞ」
桜色の瞳が恨めしそうに日番谷をねめつける。
少女にとって隠しておきたかった事実を、この銀髪の少年はいとも容易く暴いてしまった。何故、彼には自分のことがわかってしまうのか。
「――……くやしい」
の呟いた小さな声を辛うじて拾った日番谷は、呟きに目を丸くし、次いで声を殺して笑いだす。少女がこんな風に不満を表すのは初めてで、愛らしいとはこういう時に言うのか、と柄にもなく思っていた。
日番谷の態度にはますます機嫌を損ねたようだ。
「」
なんとか笑いを納めて少女に手招きをする。未だ不機嫌な少女は渋々歩み寄ってきた。
「眠れないのか?」
目の前に立つの左手をそっととった。少女に拒絶されなかったので、あやすように手を繋いで桜色の瞳を見つめた。
「――……人の気配がするの」
日番谷が無言で先を促す。
「――近くに……人の気配がするの……気になって……それで眠れなくて……」
「人の気配って……桃とばあちゃんだろ?」
以前は三人で寝ていた部屋は、がやってきてからは老婆と桃とが使い、日番谷は隣の部屋で寝ていた。
桜色の瞳が僅かに動き、斜め上を見つめる。おそらくどう説明しようか言葉を選んでいるのだろう。
日番谷は静かに待った。
「――……ここは……もう大丈夫だって、わかってるの……でも人の気配がすると、眠れない……気にしないように考えて……でも余計に周りの様子を探ってて……なんだか、どうしていいか わからなくなって……」
冷たい指先が僅かに力を込めて少年の手を握った。少女が無意識にとったであろう行動。
「――どうしたらいいか、わからなくて……なんだか……」
―――こわいよ。
うつむいてポツリと呟く少女。
が何に脅えているのか。少女のことをよく知らない、幼い少年には深く理解できなかったが、それでもどうにかしてやりたいと強く思った。
の手を強く握った。
「俺は?」
少女が顔をあげる。
「俺と一緒でもこわいか?」
「――今はこわくない」
「お前が何をこわがってるのかわかんねぇけど。とりあえず、お前が眠るまで見張っててやるよ」
「――ずっと眠くならないかも」
「じゃあ、ずっと見張っててやる。ずっと一緒にいてやる」
そんなの無理だよ――やっと少女が笑った。
それを見て日番谷少年は安堵し、繋いだ手をひいて歩き出した。