アリスの森

キンギョは、遠い夢を見る。1

 初めて彼女を見た時に、まるで月の女神が舞い降りたのかと思った。
 クーヘン王国では珍しい漆黒の髪と黒曜石の瞳。同じ色を持つ東洋の友人を見慣れている自分でも、その神秘的な美しさに目を奪われたのだから。





 5人揃って学園長に呼ばれた後、いつものようにシュトラール委員会室へ仕事の為にやってきた。
 先頭を歩いていたオルフェレウス・ゲルツは扉を開け、そして立ち止まった。
「どうかしたのか、オルフェ?」
 扉を開けたまま入らないオルフェレウスに、すぐ後ろにいたエドヴァルドが中を覗く。
「―――誰だ?」
 思わず出た一言。
「どうかしましたか、エド、オルフェ殿?」
 ナオジがふたりの背後から尋ね、カミユが同じように首を傾げる。
「あぁ……悪い」
 そう言うエドヴァルド自身も事態を飲み込めずに、とりあえずオルフェレウスの背を押して室内へ足を踏み入れる。
 その後ろからナオジとカミユ、最後にルードヴィッヒが入る。そして室内の様子に目を見張った。





 扉の正面に位置する窓辺にひとりの少女が佇んでいた。
 百合の薫りのように甘やかに。
 一枚の絵画のように静かに。


 ―――ただ静かにそこにいた。


 未だ窓の外を見つめ続ける後ろ姿は凛としていて。
 背に流れる髪は午後の陽射しを受けてなお漆黒。





「何者だ」
 最初に我に返ったのはルードヴィッヒだった。彼にしては珍しいほど険のない口調で誰何の声をあげた。
 果たして少女は振り返った。
 振り返った少女を見てさらに息を飲む。
 透き通るような象牙色の肌に、髪と同じ漆黒の瞳はまるで闇を閉じ込めた宝石。整った顔立ちは東洋人のそれだったが、良くできた人形を思わせる。
 そして背筋を伸ばす凛とした佇まいに反して、少女のかもしだす雰囲気は儚げなものだった。


 シュトラール候補生の姿を認めた少女は、しかし驚いた様子もなく、儚げで静かな空気をそのままに5人を見つめていた。
「そなたは何者だ」
 ルードヴィッヒは同じ問いを繰り返した。少女の視線がルードヴィッヒに向けられる。
「わたし……」
 少女がひとつ瞬きをする。ゆっくりと瞳を閉じ、ゆっくりと黒の瞳にルードヴィッヒの姿を映した。
「私……は…………」
 鈴の鳴るような愛らしい声で少女――は名乗った。
、か。そなたは ここで何をしているのだ」
「ここで……」
 の視線が窓の外に戻った。
「何をしていたのかしら……」
 の言葉にルードヴィッヒがため息をついて、自分の執務机に歩を進め腰をおろした。
 その様子にカミユとナオジが心配そうにしていた。無駄を嫌う合理主義の彼が、このやりとりに眦を上げるのではないか、と。
 しかし、ルードヴィッヒは何事もなかったように仕事を始めた。
「なにか思い出したら話せ」
 ルードヴィッヒの動きを目で追っていたも、初めて見た時と同じように窓の外へ意識を向けてしまった。
「あー……とりあえず俺達もやることやるか」
「え、いいんですか?」
 エドヴァルドの言葉にナオジが戸惑いつつも問いかける。
「いーんじゃねぇの。ルーイがああ言ってるんだし。――おい、オルフェ、オルフェ。なに、ぼーっとしてるんだ?」
 異国の少女に釘付けのオルフェレウスをなかば強引に机に座らせ、エドヴァルドも仕事を始める。
 他のふたりもそれに倣って、執務室には一先ずの静寂が訪れたのだ。






 今日の仕事が一段落した頃、ナオジが紅茶を淹れる為に席を立った。それと一緒に立ち上がったカミユが、黒髪の少女に声をかける。
 呼ばれた本人は未だ外を見ている。
 カミユが戸惑いの表情を浮かべるのを見ていたオルフェレウスが、立ち上がってに声をかけようとした。
 しかし――

 先にかけられたルードヴィッヒの声にが振り返った。
「なに?」
「カミユが呼んでいる」
「カミユ?」
 ことりと首を傾げる。
「あっ、僕だよ。カミユ・パァルツグラーフ・フォン・ジルヴァーナー・リューネブルク」
 よろしくね――そう言って右手を差し出したカミユに、少女は黒の瞳を向け、次に華奢な右手を重ねて握手に応じた。
「ナオジが紅茶の準備をしているんだ。も一緒に飲もう」
 繋いだ手のまま、カミユはソファへと歩きだした。
「ナオジ?」
「自分がナオジです。石月 直司。宜しくお願いします」
 人数分のティーカップに紅茶を注いでいた手を止めてナオジが名乗った。


「ところで、カミユとルーイは彼女の言葉がわかるのですか?」
 ソファへ移動してきた皆にティーカップを渡しながらナオジが尋ねた。
 ナオジの言っている意味がわからないという表情で、カミユが首を傾げる。いや、他の3人もいぶかしんでいる。
「何のこと?」
「いえ……自分の聞いている範囲では、彼女の使っている言葉は日本語だと認識しています。しかし、カミユもルーイも、彼女と会話が成り立っているようなので……。確か、ふたりは日本語は知らないはずですよね」
が日本語で話してるだと!?」
 エドヴァルドが驚きの声をあげた。
 ローテーブルに手をついた拍子にティーカップが音をたてる。それをルードヴィッヒがたしなめた。
「騒々しいぞ、エドヴァルド」
「んなこと言ったって――ちっ……」
 オルフェレウスがナオジとを交互に見やり、言葉を選ぶ。
「だから、ナオジは先程 日本語で挨拶をしたのか」
「はい」
君、君は我々の言葉がわかるようだが、ドイツ語がわかるのか?」
「ドイツ……語? なに?」
 ぼんやりとカップの紅茶を見つめていたが、顔をあげる。まともに目のあったオルフェレウスは、に見惚れて黙ってしまった。
 言葉のないオルフェレウスに少女が首を傾げる。
「おい、オルフェ」
 肩を小突かれて我にかえる。本日何度目かのその態度に、エドヴァルドがニヤニヤと笑いながら言った。
「気持ちはわかるけどさ」
 カミユとナオジも微笑ましそうに笑っている。オルフェレウスは己の失態に眉を寄せた。
「いや、ホント。思わず見惚れちまう、お前の気持ちはわかるって」
「エド、もういい」



 ルードヴィッヒの呼びかけにの視線が移る。
「なにか思い出したか?」
「紅茶……」
 手元のカップを見る。5人も同じようにのカップに目をやった。
「ミルクティーが好き」
「……そうか」
殿、どうぞ」
「ありがとう」
 ミルクピッチャーとシュガーポットを差し出したナオジに極上の笑みを返し、少しの砂糖と多めのミルクを入れて、スプーンで静かにかき混ぜた。
「そなたはここで何をしていた?」
 がカップに口をつける。
「……ここ……どこ?」
「ここはシュトラール委員会室だ。そなたはローゼンシュトルツ学園の生徒ではないな。どうやって、ここまで入れた?」
「知らない。私……どうして ここにいるのかしら」
「まるで記憶喪失だな」
 エドヴァルドの言葉に皆の視線が集まる。
「でも、名前はわかるんだよ」
「あー、だな。そうだ、お嬢さん、歳はいくつ?」
「……さあ?」
「わかんねぇの?」
「なんだか……頭に霞がかかったみたいで……」
 一度 口をつけたきりの紅茶の水面を見つめて、とつとつと答える。
「私……なんなのかしら……?」
君」
 儚げな印象のまま少女が消えてしまう気がして、オルフェレウスが腰をあげた ちょうどその時。





 コンコン


 ノックの音と入室許可を求める声。
 一瞬、5人の意識が扉へ向けられた。
 ほんの一瞬――





 その一瞬に、美しい異国の少女は姿を消していた。
 彼女の持っていたティーカップと一緒に。