アリスの森

全てを知りつつ 選んだ林檎

「あら、神田だわ」
 かつん、と硬い靴音を響かせると、崩れゆくアクマの残骸の前で荒く息をつく人影が顔を上げた。
 何年か振りに会う東洋の青年は、その黒い瞳に驚きと苛立ちを滲ませて見つめている。
 少女はルビーの瞳に嬉しそうな笑みを浮かべた。





「こんばんは、神田。久し振りね」
 やがて神田の瞳からは驚きが消え、苛立ちだけがより濃くなる。
 それを確かめて、少女はさらに笑みを深めた。乾いた靴音が二歩、ふたりの距離を縮める。
「―――なんで此処に居やがる」
 低い声が不機嫌に問うた。
「散歩」
「お前がアクマを操ってたのか?」
「私が?」
 まさか、と笑う。
「私はただの人間よ」
 そのいらえに神田は柳眉を潜めた。今更 確認することでもないのは、彼が一番理解しているはずだ。
「ところで今日は、神田ひとり?」
「……だったら何だよ」
「元気?」
 少し寂しげな声になってしまったことに、この青年は気付いているだろうか。
「あの人は元気でいる?」





 音のない深夜の石畳に、その靴音はよく響く。
 かつん、かつん、と常より遅い速度でやってくる音に、ティキは門柱へ預けていた背を離した。
 門の灯りが届くギリギリまで歩を進めると、やがて暗闇の中に愛しい少女が姿を現す。
 フリルのあしらわれた黒い傘を差して 俯き気味に歩いている少女は、どうやらティキの存在に気付いていないようだ。
 かつん、とティキもわざと靴音を鳴らして もう一歩踏み出した。
「……ティキ」
 顔を上げた少女が、ルビーの瞳で驚いたように見つめている。
「まるでオバケでも見たような顔だな」
 ふ、と笑うティキへ はかつかつと足早に近付き、彼の顔を見上げた。
 赤い紅いルビーの宝石眼だが、陽の光の中では紫を帯びた赤であることをティキは知っている。
「どうしたの? まさか、今から出掛けるの?」
「俺を待たせて夜遊びに興じる、困ったお姫様をお迎えにあがりましたが?」
 その言葉に、ティキを見上げていたルビーの瞳が安堵の色を映した。
 の様子にティキは優しく微笑む。
 この少女を自分の元へ攫ってきて ずいぶん経つが、気儘な白の生活をしているせいで ほったらかしにすることも少なくなかった。
 彼女も彼女で気儘に過ごしているようで、元来ドライな性格の少女から寂しいなどという言葉はついぞ聞いたことがない。
 しかし、の元をおとなえば 甘えてティキから離れない。その姿を見るのはティキとしても気持ちが良いものだった。
 そんな彼女も、今夜は珍しくティキを置いて出掛けていたのだが。


 ティキが静かに差し出した右手に、少女の黒い傘が渡される。
 それを閉じて反対の手に持ち代えると、もう一度へと手を差し出した。
 はしばらくティキの顔と手を見比べていたが、やがて その手は取らずにティキの胸に華奢な指を触れさせた。
 門に掲げられた灯りに照らされて、紅く彩られた爪が一段と目を引く。
「ねぇ、ティキ」
 差し出していた手をそのまま少女の腰へと回して、ティキが甘やかすように抱き寄せる。
 そして、甘く囁く唇に触れるだけのキスをして、「なんだ?」と聞き返した。
「前にロードが話してた街があるでしょ?」
「ん?」
「アップルパイの美味しい店があったって」
 此処から少し離れたところにある街の話をロードがしたのは、ごく最近のことだ。
 伯爵の命令で『少し』遊んできたのだと言っていたが、店の存在を過去形で述べたことから街としては機能していないのだろうということは、ティキにもにも予想できた。
「あの街のアクマ、全部壊されちゃってたわよ」
 言われた言葉にすぐには反応できず、ややあって「……ふぅん」と答えた。
 言葉と一緒に微笑を浮かべたが、目が笑っていない自覚はある。
「俺を置いて出掛けたと思ったら、そんなところへ何しに行ってたんだ?」
「散歩」
 一方、はというと、ティキの笑みにたじろぐ様子もなく簡単にそう返した。
 彼女の表情からは、いまひとつ真意が読み取れない。
 いつもの気まぐれで出掛けたのか、何か目的があって出掛けたのか。勘繰ってしまうのは、少女が元いた場所へ戻ってしまうのではないかとティキが危惧しているからだ。
「散歩、ね。お姫様の散歩にしては、些か遠出が過ぎるんじゃないか」
「ティキの『ちょっと出掛けてくる』よりは、ずっと近いと思うけど」
「……アクマのいる街にひとりで行くなんて危ないだろ」
 少女はノアではないのだから、アクマに何をされるかわからない。それに、アクマのいる街に行けば、奴らと会う機会も増えるのに。
「別に、」
 紅い爪がティキの胸元を、服越しにかりかりと引っ掻く。
「あの街に行こうと思ってたわけじゃないわよ。着いた場所が偶然あの街だっただけ」
 子ども染みたその行動が誘っているように見えるのは、指先を彩る紅のせいだろうか。
「アクマが壊されてた、って言ったな」
「ええ」
「教団の奴らには会ったのか?」
 ティキを見つめていた瞳が閉ざされて、静かな声で肯定される。
「懐かしい顔ではあったけど、でも、私の会いたい人じゃなかったわね」
「……後悔しているか?」
 自分と一緒に来たことを。
 ティキの言葉に、閉ざされていたルビーの双眸が開かれ、少女がことり、と首を傾げた。
「ティキには、そんな風に見えた?」
 心外ね、と少女はちいさく笑う。
 その笑みからは、やはり真意は読み取れなかった。





「ねぇ、ティキ」
 彼と共にいることを選んだのはだ。
 多少の寂しさはあろうとも、その選択を後悔したことはない。
「白雪姫は毒林檎だと知っていても、その林檎を口にしたと思うわ」
 素敵な王子様を手に入れるためなら、その毒ですら甘美な味がするのでしょうね。


 林檎のように紅い指先に、先程よりも強い力で爪をたてられる。
 毒だと知っていて口にした林檎、その毒はきっとこの爪に溶け込んでいるのかもしれない。
 自分を誘うその紅い指先をすくい取り、接吻ける。
「そういえば、いつもつけてる指輪はどうしたんだ?」
 護り石のようにその華奢な指にはめられていた指輪の不在を問えば。
「あげちゃった」
 腕の中の白雪姫がくすくすと笑う。


 爪をたてられたところから、じわじわと甘い毒が回っているような気がした。